説教・行事

2008/5/5 月曜日

春のチャペルコンサ-ト

新しい人のための特別音楽礼拝

5月25日(日) 開場9:30 10:00~11:30

テーマ「感謝に満ちた生活へ」

演奏・証 ハープ奏者 佐々木冬彦氏

曲目 バッハ「プレリュード」 佐々木冬彦「祈り」 シューマ      ン「トロイメライ」 ドビュッシー「亜麻色の髪の乙女」 讃美 歌「アメイジンググレイス」 他

皆様のおいでをお待ちしております。

2008/5/4 日曜日

責任ある生き方をする

「この町の平安を祈る」  エレミヤ書 29章:1-14節
                               

 バビロンに破れ、奴隷として連れて行かれたイスラエルの民に明日の希望はありません。人々は刹那的で投げやりになり、逆に甘い予想を立て、それを煽る人もいました。そんな同胞にエレミヤは手紙を書きました。
「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。私はエルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい」

 目先のことにとらわれない、なんという腰の座りようでしょう。しかし、その言葉はバビロンにコビを売り、祖国を裏切り、いさぎよさのない生き方のようにも聞こえます。ですからエレミヤとまったく逆の生き方を説く預言者や占い師もいました。しかし彼らは神が遣わした者ではない、というのです。
「主はこう言われる。バビロンに70年(神の時)の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。…わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画で、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」

 歴史の主を知り、将来と希望が与られていますので、自分を投げたり、浮かれたりもせず、置かれた土地で責任ある生き方をします。自分がそこで平安に生きるだけでなく、家族やその町に神様の平安を祈り、持ち運ぶのです。

                   富里教会牧師 内田汎                                                     

2008/4/28 月曜日

恵みや愛は自分から受け止めていくもの

「本物と模倣」            創世記 19・15ー29 

 自分の責任で決断しなければならなくなった時、人はその本質が明らかになります。
 アブラハムから住む場所の選択を迫られたとき、ロトは迷うことなくよく潤った地を選び取ります(13章)。年老いて子の無い伯父アブラハムへの いたわりはありません。ソドムの町の滅亡を前に立退が迫られた時、その生活や富に妻と共に未練を残します。富が悪であったり、貧しさが清いのではありません。ただロトは目先のことだけを見て生きていたのです。 

 小さい時からアブラハムと行動を共にし、その祈りを聞き、決断の仕方も見ていたはずです。しかしロトはそこから何も学んでいません。ロトのしたことは、アブラハムの模倣だったのです。 
 模倣は大切です。何事も初めは模倣から始まります。模倣から学び取り自分のものにしていくのですが(ヨハネ 4:42)、ロトにはそれがありません。

 ロトに神様の恵みがなかったのではありません。ただ神様の恵みは自動的に与えられものではなく、自分から自分のものとしていくものです。ロトはいつも自分が中心で、目先の計算しかないのです。アブラハムのように心の一番深いところに神様がいないのです。神様の愛に信頼する突き抜けた喜びがないのです。

                                                      富里教会 牧師   内田汎
                                                      

2008/4/20 日曜日

悔い改めて赦しに生きる

「神の前で生きているか」      マルコ 6・14ー29

 ヨハネの生涯は救い主を迎える準備でした。救いは真実な生活に私たちを導くことですから、救いのための最大の準備は、罪を示し、悔い改めに導くことです。あなたの生き方は神の前でそれでいいのかと人々に鋭く迫り、返す刀で領主ヘロデの不義も裁きます。そのためヨハネは、マケラスの要塞に幽閉されます。            
 ヘロデはまさか自分の誕生日にヨハネを殺害するなど思ってもみなかったに違いありません。酒に酔って、ヘロデヤの連れ子サロメに軽口をたたき、自分の面子のためにヨハネを殺してしまいます。

 ヘロデのしたことはダビデのしたこととそっくりです。ダビデはウリヤの妻バト・シェバを自分のものとしてしまいます。預言者ナタンによってそれが糾弾されたことも同じです。しかしダビデは自分の面子を捨てて神様に赦しを請い、逆にヘロデはヨハネを殺してしまいます。

 人が救われるのは罪を犯さないからではありません。間違いや失敗のない人は一人もいません。罪を犯したあと、面子にこだわるか、神様の前にへりくだるかなのです。
 神様の前で自分の罪に気付き、イエス様によってその罪が赦されていることには、もっと気付きたいと思います。

2008/4/13 日曜日

死を前にして

 「わたしを知る神」                         詩編 139・1ー18 
     
 三種類の死があります。三人称の死は、例えば新聞で報じられる様なので、心は痛めますが所詮第三者の死です。 二人称の死は、私と一緒に生きてきた「あなた」の死で、腹に食い込みます。 一人称の死は、私の死で、どうしていいのかわからない不安と恐怖です。この死を前に、私たちは何を持っているのでしょうか。
 
 詩編139篇は神様の全知、全能、遍在を賛美した歌です。                信仰の民イスラエルは、バビロン捕囚という出来事で決定的な衝撃を受けました。
 それなりに国は大きくなり、神様から守られ、自分たちも神様を信じていると思っていましたが、バビロン軍が攻めてきて自分たちを根こそぎ滅ぼしたのです。自分の存在と信仰は根底からゆさぶられました。
 自分が神様に従う時神様は祝福して下さり、裏切ったら罰せられる。それは事実ですが、神様の恵みは自分の努力と熱心にかかっているのか。徹底的な絶望の中で、イスラエルの民は裏切っても私を決して捨てない神、私が知る神でなく私を知る神を知らされたのです。        
 
 信仰にはこの転換がどうしても必要です。これが分かっていなければ、何もかもを私から奪い取る死の前でどうするのでしょうか。礼拝するから神様は私を守のではなく、私たちを守り覚えてくださる神様を礼拝しています。死の時も御手のうちに置いてくださる神様を私たちは礼拝しているのです。
                                                      

2008/4/6 日曜日

与えられたのは与えるため

「恵みを携える者」                            マルコ 6・6ー13 

 イエス様は二人を一組にして弟子たちを伝道に遣わされました。その際何を告げるか以上に、どう生きるかを語られます。伝道は言葉でもなされますが、私たちの生き様がそれ以上にイエス様を伝えるからです。

 旅には杖一本を持ち、履物をはくだけで、パンも袋もお金も持たせませんでした。物が伝道するのではないのです。生ける神様の愛の支配、思い煩いとは無縁な生活をその生き方で伝えるのです。
 その土地で、都合が悪くなったらすぐに引っ越すような無責任な生活(伝道)はしません。
 更にまた、主の支配を受け入れなければ神様と無縁の生活を送ることになることを、行動で(足のチリを払い落とす)示します。これを無視すれば神様の恵とは無縁の生活を送ることになるのですよと。私たちが委ねられ、神様の支配を語る言葉は無視されてよいはずはないのです。

 イエス様もパウロも伝道を命じました。伝えることで私に伝えられた福音が更にはっきりするからです(Ⅰコリント9・23)。
 また、自分が救われるだけで周りの者に救いが語られないとすれば、それは聖書の信仰ではありません(創世記12・3)。知らされたのは伝えるためであり、涙が拭われたのはイエス様と一緒に涙を拭う者になるためなのです。

                                   富里教会 牧師  内田 汎
                                                      

2008/3/30 日曜日

失敗してもいいのではありませんが

「エル・ロイ(顧みられる神)」                創世記 16・1ー16 

 約束のものを受けるのに必要なのは忍耐です(ヘブライ10:36)。ところがサラは待てませんでした。ここから悲劇は始まります。ハガルとイシュマエルはサラ達が立つべきところに立たないところから出た犠牲者なのです。

 子の無いサラに代わって召使ハガルはアブラハムの子をはらみました。自分がみごもったことでサラを見下したハガルは、サラからいじめられ、逃げだします。「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」それが出来ないでサラのもとを逃げだしたハガルに、天の使いは言います。
 
 考えてみれば、主人の所がいずらくなったのは主人だけの原因ではありません。ハガルも問題です。相手も悪いですが、自分にも原因の一端はあるのです。強い者には強い者の悪があり、弱い者には弱い者の醜さがあります。上の者の我がままと、下の者のずるさがあるのです。 
 苦しくはあっても立つべきところに立つ。したいかしたくないか、得か損かではなく、しなければならないことをしていく。ここに立たなければ本当の問題の解決はなく、問題はもっと混乱します。問題を先送りにすれば倍になって帰ってくるのです。

 私たちを顧みていて下さる神様(エル・ロイ)がいるのです。播いたものを刈り取って流す涙を知っていて下さる方がいるのです。間違えてもいいのではありませんし、失敗しないに越したことはありません。でもその辛い涙を知ってくださる方がいるのです。ですから立つべきところに帰ります。するとそこに泉があるのです。 

                                                        富里教会 牧師 内田 汎             

2008/3/23 日曜日

イースターの嘉信

「神の出来事」                              マルコ 16・1ー8 

 イエス様の復活にふれた婦人たちは戸惑い恐れました。私も戸惑い迷いました。十字架については語りますが、復活については薄雲がかかったようで歯切れが悪いのです。二つの事を知ることで薄雲が晴れました。

 聖書にはイエス様の復活について納得のいく説明はありません。天使が現れて、空虚な墓を示してキリストの復活を宣言しただけなのです。
 納得できることと信仰は違います。納得したのであれば信じる必要はありません。物ならば切り刻んで納得するまで調べることが出来ますが、人格の関係は最後は信じる以外ないのです。見ても信じますが、見ないでも信じられるのはもっと幸いです。
 イエス様の十字架は比類ない愛の話です。私たちの周囲にある愛の話はいつも暗い影がついて廻ります。愛の話であればあるほど悲しい話でもあります。しかし私たちのために十字架に掛けられたイエス様は甦えられたのです。ここに私たちの救いの突き抜ける喜びがあります。

 クリスマスは神の愛が明らかになった時ですが、イースターは神様が生きて働いていることが明らかになった時です。
 この神様に「ガリラヤ」で出会います。神様を信じる者より信じない者のほうがはるかに多く、逃げだしたくなるような問題や課題のある生活の場、私の「ガリラヤ」で出会います。そこに甦りの主はおられるのです。

富里教会 牧師  内田 汎
 

2008/3/16 日曜日

十字架の意味

 「暗さをつき抜けて平安へ」                  マルコ 15・33ー47

 イエス様は十字架の上で六時間苦しまれ、地上の生涯を終え、墓に葬られました。
 マルコは押さえた筆でその“事実”を伝えます。感情をさしはさまない描写だけに、イエス様の様子がひしひしと伝わってきます。
 二つの異変を記します。「昼の十二時になると、全地は暗くなり」と、イエス様が息を引き取られた後、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」ことです。マルコはこの二つを記すことで、イエス様の十字架の“意味”を伝えたかったに違いありません。

 「暗さ」とは、神に捨てられる暗さです。神をもたない暗さです。信じるべき方をもたず、人生の夕暮が近づき、体力に陰りが見え始め、一体自分はどこに向かっているのか、私たちの知る暗さはその片鱗にすぎません。
 イエス様のして下さったことにより、神様と人を隔てるものが取り去られたのです(ヘブライ9章)。信じる方をもつ平安と幸いの道が開かれたのです。

 「何の疑もなく/こんな者でも/たしかに救って下さると信ずれば/ただあり難し/生きる張合がしぜんとわいてくる」 八木重吉

                                    富里教会 牧師  内田 汎

                                                      

2008/3/9 日曜日

思惑をくずす

 「思いを越える救い主」             マルコ 6・1ー6 

 「この人は、このようなことをどこから得たのだろうか。…その手で行なわれる奇跡は一体なにか。この人は大工ではないか。マリヤの息子で…兄弟、姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」                                      
 

 これは郷里の人々の反応です。故郷の人たちはイエス様の氏素性を知っているとして、その本質を見るのではなく周辺で判断してしまいます。これはある意味では致し方のないことでしょう。イエス様は「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われました。 
                                 
 しかしこれはイエス様を上辺で誤解したというだけではなく、本質にかかわる躓きでもあります。
 「マリヤの息子」と故郷の人は言いました。ユダヤでは人を語る時は父の名を言いますから、これは異例です。故郷の人たちもマリヤが結婚前に身重になったことを知っていたのでしょう。私たちは「主は聖霊によって宿り処女マリヤより生まれ」と感謝をもって告白していますが、故郷の人たちは揶揄を持ってそれを語ります。自分たちはお前の事を何もかも知っているぞと言います。実は故郷の人たちにとってもイエス様は、何もかもを知られ、知っているからこそ救い主なのです。それがわかりません。
 

 私たちと一緒に住んだからこそ私たちの痛みも悲しみも、問題のすべてをわかっていて、執り成して下さるのです。それが受肉の意味です。そういう救い主なのです。                                     

                                                                    富里教会 牧師  内田 汎

                                                      

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